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1984頃


1988頃


1993頃


1994頃


1996頃


1997Tempozan


1998頃


1999Tempozan

▲ 芸暦

1984年、コメディアンになるために修行を始める
1989-1991年、ブリスベンで初のコメディクラブを経営する。
1992年、来日後ストリートパフォーマーとして活動開始

天保山ワールドパフォーマンスフェスティバルで天保山マーケットプレース賞を受賞「ナイト・イン・ナイト」「ノックは無用」などのテレビ出演をする
    以後、大阪弁をしゃべる外人パフォーマーとして、北海道から九州まで 数々のイベント・祭り・大道芸フェスティバルなどに出演

2002年、天保山ワールドパフォーマンスフェスティバルで再び、天保山マーケットプレース賞を受賞
     2005年、大阪エンタフェスのアドバイザー

▲ 出演イベント

天保山ワールドパフォーマンスフェスティバル、静岡大道芸フェスティバル、アーバンリゾートフェア神戸’93
御堂筋まつり、DECKS東京ビーチ、北海道マリンパーク、レオマワールド、呉ポートピアランド、岸和田カンカン、 りんくうパパラ、ABCハウジング、大丸百貨店、近鉄百貨店、等

TV番組

「ナイト・イン・ナイト」「ノックは無用」「たかじん胸いっぱい」「ABCD〜す」「なにわ友あれ赤井英和」「ハッスル家族」「吉本超合金」「学校へ行こう」『体育王国』「おはよう関西」 等

TV CM

「ダスキンターミニックス クリスマス編」     「ジョリーマダムの焼きプリン」「づぼらや」「日清お好み焼き粉」     「リクルート」「TU-KA V3」


1984年、シドニーコメディーストアはオーストラリアの新しいコメディアンの大半を産み出している場所として有名だった。そこが私が喋り中心の笑い芸人として初挑戦した場所であった。ちょうど水曜の夜のことでした。

シドニーにはタレントコンクールをやっている他のクラブがいくつかありました。私はたくさん練習の機会を得るために参加しました。そしていくつかのコンクールで一位並びに二位、 三位と打ち勝ちました。

ほんの3ヶ月後にはコメディアンとして私の演技で、エージェンシーから収入を得ることが出来ました。そしてまた、コメディーショー、その他司会として1年間キングズクロスのバレルシアターで過ごしました。

3年半の間に、シドニーで人を笑わせる方法を学びながらコメディー役者として、オーストラリアンフィルム&TVスクールで学びそしてコメディー作家としてWEAにて学びました。そしてまたオーストラリアの映画”バーク&ウィルス”にも出演しました。

1988年に私はメルボルンに移り、コメディークラブを巡回しました。それからファナボードラグジュアリーツアーの面白いバスガイドそして、ザ・コメディーウェアハウスの司会の仕事をし、ユーモアコメディー&ラフターセンターにて勉強していました。

その時、昼間の仕事として観光局でキャッシャーとしての仕事もありました。でも地元のブリスベンに帰ってコメディクラブを立ち上げるために辞める決意をしました。


1989頃 ゴールドコーストにて千加子が私を追いかけながら..

私の前妻、千加子(その時まだ私のガールフレンドでした)”もしコメディアンとして十分にお金を稼ぐことが出来なかったら私も一緒に働くわ”と言ってくれました。その時以来それほど働いてくれませんでした(彼女にそれを思い出させることは、彼女を怒らせることになるかなあ)。

私達はブリスベンで結婚して、彼女は私達の息子達を産みました。私はその時コメディークラブを運営しようとしていました。B105というオーストラリアのNO.1ラジオ局でコメディーを書き、それと共にテレビ番組やCMや有名なワーナーブロススタジオで作られた映画に出ました。

私はスタント役者としてもトレーニングし、空手道場も運営していきました。3年間続けてパブやクラブで経営者として司会もしながらショーを作り上げました。そこに居た仲間達からジャグリング、マジック、パントマイム、即興演劇、風船動物、を習い始めました。

いつも私は出来る限り私の技を広げようと努力しました。それはしばしば私の生徒にも教えている事のひとつです。

私には、2人の兄弟がいますが、千加子は十代のころ一人っ子になりました。一人いた兄弟が12才の時に亡くなったからです。いつか故郷に帰りたいと彼女は言いました。彼女の両親が年老いていくと助ることが出来るからです。なぜなら私は2人の息子がいて、彼女の両親は息子を失くし子供がいないから私は日本に来て暮らすことを強く私の義務として感じました。

だからブリスベンで運営して来たコメディクラブと空手道場をたたみ、日本語に翻訳できると思ったマジックやジャグリングや風船動物を組み合わせたショーを作って、そして1992年に日本へ来ました。そして千加子を通訳として手伝わせて私の全ての言葉にならい、ストリートに出て大阪中を探検しました。

1992年5月からそのショーで生計を立てることが出来ました。12分のかなりぎこちない見た目のパフォーマンス、その上へたくそな日本語からなるショーから、45分で作られる上等な日本語のギャグそしてジャグリングとマジックと、バルーンの数々に発展して行きました.それがわたし達家族を支えてくれました。


1997頃 マリーンパーク、登別、北海道にて。

日本全国でそのショーをしてお金を稼ぎ、古い倉庫の中で私の手作り劇場を作り上げることが出来ました。そこで即興演劇のワークショップとショーを英語と日本語で、そしてジャグリングワークショップとパフォーマンスコンペティションやサイエントロジーの抗議、またパーティをし料理して友人らと楽しみました。

また私は他の劇団に手作り劇場を貸してあげました。それはかつて劇団の座長が名づけた”パラダイス ”というものです。だがその劇団の大半は劇場を存続し続けられるほどではなかったのです。

そして私の前妻はそれを経営し手伝うのが嫌だったので、今新しいアシスタントと劇場を作れる場所を探しているところであります。それと新しい妻も捜しています。(笑)

新しいイベントのお知らせ

大阪の中津にあるレストラン、ピエロハーバーで金曜の夜11月21〜12月19までディナーショーを開催いたします。入場料は、お食事代と観劇代込みで3000円です。お食事はバイキング形式で飲み物は別料金です。

お問い合わせはブッチリード:

Mob. 090-8529-5471 E-mail butchread@nifty.com

 


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